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シニョリーア広場

Photo © Comune di Firenze フィレンツェのすべての広場は、人々がいつでも集まれる場所としての歴史的な役割を今日まで果たしてきました。ただし、単に人が集うだけではなく、スタンドや売店で買い物したり、遊んだり、食べたりできる場でもあります。 最新の流行や時代の空気を眺めるには「シニョーリア広場」が最適です。ここではイベントやデモンストレーション、コンサート、パフォーマンスといった様々な賑わいのみならず、空の静けさを味わうこともできます。 市庁舎「ヴェッキョ宮殿」の前と横に広がるこの広場では、 時には市長の姿や、市庁舎で一生の愛を誓ったばかりの新婚夫婦を祝う人々を目にすることもあり、フィレンツェでもっとも賑やかな散策が楽しめます。 またこの広場は市民生活を支えるだけではなく、フィレンツェの歴史・過去とも出会うことができる場でもあります。 古代ローマの彫刻家達から近代のピオ・フェディに至るまで、ドナテッロ、ミケランジェロ、ジャンボローニャなどのルネッサンスの偉大な芸術家達を含め、この広場に挑んだ芸術家達は、毎日通りすがりの人々にメッセージを語りかけています。時間の経過とともに、そのメッセージはフィレンツェの魂に溶け込みました。 耳を傾けてくれるような好奇心の強い旅行者をシニョーリア広場は根気強く待ち続けています。

大聖堂の丸屋根

Photo©Comune di Firenze フィレンツェの名声は、その象徴である数々の建物の輪郭に大きく由来しています。その最たるものが、フィレンツェで最も有名な教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の丸屋根です。建築と工学の傑作である丸屋根(イタリア語で「クーポラ」)は、人間の能力と無限の可能性への信頼に満ちていた「ルネッサンス」という時代を今日でも雄弁に物語っています。 大聖堂は近代最初の「建築家」として知られるフィリッポ・ブルネレスキの指導の下、1420年から1436年までのわずか16年間で革新的な方法で建設されました。しかし、ブルネレスキの死も一因となり作業が遅れ、クーポラの完成にはさらにしばらくの年月がかかり、1471年に作業が完了しました。人文主義者・建築理論家であるレオン・バッティスタ・アルベルティは、丸屋根についてこのように述べています。「すべてトスカーナの人々がその影で覆われるように広く立っています」。 完成とともに、すぐにクーポラはフィレンツェの才能を象徴するものとなりました。伝説によれば、建設後まもなく生まれたミケランジェロ・ブオナローティも、サンピエトロ寺院の建設現場で働くためにローマに呼ばれフィレンツェを出発する際、父親への手紙で次のようにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の丸屋根について記しています。「ローマで姉妹の丸屋根の建設に参ります。しかしもっと大きくなっても、美しさでは負けるでしょう」と。

ウフィツィ美術館

Foto Signorini ウフィツィ美術館がなければ、フィレンツェはフィレンツェではありません。1500年代後半に建てられたこの建物は、たとえ美術館がなかったとしても歴史的な価値は大きく、覗かずにフィレンツェを立ち去ることはできません。 自らの権力を知らしめるために新しい行政庁舎の建設に取り組んだメディチ家は、建物の最上階を貴族の宮殿に欠かせない外気に触れることができる「ロッジャ」とするつもりでした。しかし完成後間もなく当初の計画を変更し、ロッジャには大きな窓が加えられました。メディチ家はこの建物の最上階を、自らのコレクション安全に保管し好きな時に楽しめる「宝物のギャラリー」へと変えたのです。もちろん、窓から街の風景を楽しみながら。その結果、この美術館は収蔵された宝物と絶妙なロケーションにより、尽きることのない感動を与えてくれることとなりました。 何世紀にも渡る収集で数を増したかけがえのない芸術作品、定期的に流行に合わせて塗り重ねられてきた展示室の壁色・光・装飾、度重なる改修、これらすべてがこの美術館特有の生命力を物語っています。さらに、ウフィツィ美術館からしか見られない風景、撮ることができない写真も数多く、街と一体となったこの美術館の魅力はつきません。 このギャラリーには、もう一つの街と溶け込んだ名所、いわゆる「ヴァサーリの回廊」があります。ウフィツィ美術館の延長線とも考えられるヴァサーリの回廊は一キロの渡り廊下で、ヴェッキオ宮殿を出てウフィツィ美術館に進み、そしてアルノ川沿に伸び、さらにヴェッキオ橋の上を通り、最終的にはアルノ川の対岸にあるもう一つのメディチ家の邸や、後にイタリア王が住むことになる「ピッティ宮殿」へとつながっています。 これほどの宝物が収められながら、これほど都市と融合した博物館は珍しく、その魅力は永遠と続くものでしょう。

ミケランジェロのダビデ像

Foto Signorini フィレンツェの偉業の一つに、世界で最な彫像の一つ、ミケランジェロによるダビデ像があります。ミケランジェロ(1475年生)は、当時の芸術家の間で知られるようになったばかりのカララ産大理石の、1501~1504年に採掘された塊からこの像を彫りだしました。しかしその大理石は細長い上に質も悪く、実際他の二人の彫刻家は、穴と亀裂が多すぎて使い物にならないと彫刻の依頼を断っていました。そうした中、ミケランジェロは雨や風、どのような天候の下でも三年間懸命に作業に打ち込み、このイスラエルの偉大な王の姿を彫り出すことに成功しました。 聖書では、王になる前の少年ダビデは、敵に脅かされている自らの民イスラエルを助けるために勇気と知恵だけで決闘に臨み、携帯用の投石器のみで強大な敵を打ち負かしたとされています。 勇気、自分に何かできるかの客観的な自覚、そして神の助力への信頼。この三つの理念を印象的に伝えることができるようにミケランジェロは務め、解剖学的にも細心の注意を払って完璧に人体像を彫刻しました(実は「間違え」が一つあり、人体には存在しない筋肉が背中の皮に一つ浮かび上がっているとのことですが、それさえも訳があるようで、この彫刻の魅力をさらに際だたせています)。覚悟、集中力、緊張、誇り、決意。フィレンツェの人々が理想としたこうした思いがこの彫刻には表現されています。 フィレンツェの理想、フィレンツェ人のあるべき姿、ミケランジェロはダビデ像にそれを託しました。この彫像が投げかける希望へのメッセージは、今日でも世界中の人々に必要不可欠なのかもしれません。

ポンテ・ヴェッキオ

都市と川、川と都市。フィレンツェは、トスカーナ随一の川であるアルノ川がなければありませんでした。言い伝えによれば、紀元前1世紀に引退後のローマ兵士たちに、大昔からこの地域唯一の交易路であるアルノ川が流れる広い盆地に定住する許可がおりたとのことです。ローマ帝国の建設に重要な役割を担ったユリウス·カエサルの退役軍人でした。彼らにより、フィレンツェはアルノ川北岸の港街として生まれました。アルノ川のおかげで、地元の製品を海へ、そしてティレニア海経由で地中海へ、さらにローマへ輸送することが可能となりました。  しかしローマ帝国の崩壊後、海の危険性が増すにつれ、アルノ川の水路に並行した陸路も築かれます。北に向かうにはフィレンツェ背後のアペニン山脈が北自然の障壁となりましたが、シエナやローマ方面の南側の道ははるかに開発が容易でした。そのため、まずアルノ川を渡たって少しずつ南に広がり、街は「アルノ川の向こうに」発展していくこととなりました。 「オルトラルノ」と呼ばれる川の南岸部に向かう数々の橋は、都市の発展とともに大きく変化し、その歴史と時代を物語っています。 1345年以来フィレンツェの大動脈であった有名な橋「ポンテ·ヴェッキオ」は、第二次世界大戦での破壊を唯一生き残りました。当初日常用品の市場であったヴェッキオ橋は、メディチ家がトスカーナ大公となった1500年代に金細工職人の工房として繁栄し、現在では素敵な水上観光スポットとなっています。川を通じてこの町を発展させた橋は一つではありません。 今日なお町の発展を支えている様々な橋を見にいきませんか。